太陽と月と花火と

不確かな記憶の中に生きている

写真のはなし

写真はあまり撮らない。カメラはあるが、持ち運ぶのが重いし億劫だから。

 

でも、たまにデジタル一眼レフやチェキを持って行ってふと目についたものを手当たり次第撮ったりする。

瞬間を切るとるなんて言ったりするけれど、正直よくわかっていない。デジタル一眼レフやチェキで撮った写真は、個人的な感想を言うのであれば、出来すぎた画のように映り、自分の目よりもきれいに映し出しているように見える。空間全体を切り取っているわけではなく、やはり撮影者の意図が写真には反映されているのだと思う。

 

ピンボケさせるだけで何かいい画だなぁって感じるのはどういう理由なんだろう。

どことなく、綺麗すぎる音源よりも拙い録音での音源の方が気持ちよく感じることと似ている気がした。

 

 

3,4年前にたくさんのチェキを撮ったの思い出して、引っ張り出してみた。

連絡を取らなくなった人、まだ連絡を取っている人、それぞれだけれど、結構みんな笑顔で写ってくれていて少しほんわかした。

 

いつかの大阪で撮ったチェキなんかは、そもそも酔っ払いすぎてその日の記憶がないのだけれど、ポンコツな頭の代わりになってくれていてすごいなって思った。

勝手に自撮りされているのもあったけど。

 

 

日常生活に埋もれていく思い出を、良い意味でも悪い意味でも呼び覚ましてくれる写真は好きでもあるし嫌いでもある。

結構前までは、写真に写るのがすごく嫌いだったけど、最近はなぜだかどうでもよくなっているし、何ならSNOWとか所謂盛れるアプリで撮るのはちょっと面白いなって思ってる。

なんなら、友達には自撮りでSNSに上げる写真としては少しキツめだと思いました。なんて言われながらもTwitterにSNOWで撮った自撮りを上げる始末。

SNOW楽しいよSNOW

 

 

 

赤ちゃんと呼ばれていたころの写真を結構な大人になるまでほとんど見たことがなく、うちの親は4番目になってくると写真を撮らなくなっていったんだなって勝手に思ってたけど、実際にはしっかりと撮っていてくれて内心申し訳なくなった。

 

ちなみに小学校1,2年生くらいのころか3,4年生のころか、忘れたけれど琉舞を習っていて、その舞台裏の写真の自分はかなり可愛かった。誰だろうこの人はって自分で思った。お前だよお前。

 

でも、母は小学校6年生のころの運動会で別の子をカメラにおさめていたことがある。なんてこったい。しかし一体だれが映っていたのだろうか。

 

 

今度、友達に会ったら教えてあげようと思う。なんのきなしに撮った写真が数年後にとても愛おしく思えることがあるよって。

 

 

3日間お休みしていたせいか、こいつはもうブログを更新しないんだなって思われてか、アクセス数が減っていたのだけれど、今日あたりから戻り始めていて少し嬉しい今日でした。

 

 

日々は続くようです。