太陽と月と花火と

不確かな記憶の中に生きている

ごはんの話

誰かとごはんを食べるのが好きだ。

 

ベジタリアンだって修行僧だってごはんを食べる。

光合成でもしない限り人はご飯を食べる。

 

ごはんを食べることと生きることは密接に関わっているって体験していて、すごく落ち込んでいる時こそごはんを食べないといけないと思う。

でもやっぱり落ち込んでいるとごはんの事なんて考えられないと思う。

もし近くに大切な人がいて、その人が落ち込んでいるときはごはんを食べさせてあげてみてほしい。

 

普段、映画やドラマを観る以外でテレビをつけることがほとんどない。テレビ番組をほとんどみない。

 

ひとりでいるときに独りだなあって思うのは、ごはんを食べるときが多いと思う。特に夕飯。

自分のためだけにIHの電源を入れて、自分のためだけにフライパンを乗せ、自分のためだけに焼いたり炒めたり。器に装い、テーブルに並べ、箸を置く。

ソファーに座り、両の手を合わせて、予定調和の口上を述べる。

 

まだ元気な日は、Netflixから映画やドラマを探し観ながら食べる。

そうじゃない日は、出番がないからと鏡の真似事をして、一人の人を映すテレビをただみている。

 

もぐもぐと、口は閉じているが骨を通してひとりの部屋に響く。

 

そういう日が続くと、ごはんを食べるのが億劫になってくる。悪循環が始まる。

良くも悪くもひとりなはずなのに、孤独を強く感じて、良くはなく、悪くて独りなのだと思ってしまう。

 

何か空いている気はしても食欲はなく、食べてはみても素っ気なく感じて、作業になっていく。

 

きっとお腹が空いているのではなく、心が空いているんだと気づいたころには誰に話せばいいのかすらわからなくなっているときもあると思う。

 

生きるにはエネルギーが必要で。

きっとごはんは身体にエネルギーを供給するだけのものではなく。

きっと誰かと食べることによって精神にも力が供給されるのだと思う。

 

 

食物連鎖の頂点に立ち、科学の力で盤石なものになったとは思うけれど技術がどれだけ進歩しても他者とのつながりはきっと切ることはできないのだと思う。

 

誰かと共同作業しても楽しいし満たされる気持ちはあるが、そのあとにその人と別れてひとりで食べるごはんはきっといつもより寂しいものだと思う。

 

 

 誰かとごはんを食べるのが好きだ。

ライブをみて、ライブをみてもらってお互いに敬う心が芽生えたとしてもごはんを食べて初めて仲良くなれた気がする。

 

 

最高のスパイスは空腹だとして、唯一無二となる味付けは大切な人と食べることなんだと思う。

 

 

ええ、この流れはもはや予定調和。

今度、友達に会ったらごはんを食べに行こうよって伝えようと思う。

そして、きっと君と食べるととても美味しくなると思ってるってことを教えてあげようと思う。