ラジオのはなし
ラジオが好きだ。
今はもう全然ラジオを聞かなくなったがラジオが好きだ。
音楽もそうだけど車に乗らなくなってからラジオも聞かなくなった。
たわいもない話をするパーソナリティが好きだった。
何を話したかをちゃんと覚えていないラジオが好きだった。
楽しかったという気持ちだけがほどよく残ってまた次の番組に耳を傾ける。窓から見える景色は、晴れの日もあれば雨の日だってあるけれど変わらないそれぞれの声でそれぞれの話がカーステレオから流れる。
天気だけじゃない。自分の心が晴れていようが曇っていようがお構いなくパーソナリティは喋り曲を流す。
こちらからの声は届かないし届けようとはあまり思わなかった。ただ、変わらずに流れる声が変わらずに接してくれているようで好きだった。
小学校の頃に、犬が一匹家にやってきた。
2番目の兄から、お前も言えば買ってもらえる。と言われたのを覚えている。ずるがしこいね。
家族となった彼もラジオと同じようだった。変わらずに接してくれた。
ただ唯一、中学生ながらすごく悩んだときだけは、ただ黙ってそばにいてくれた。
本当につらいときはカーステレオを切っていた。
今も本当は家で音楽を聴かない状態というのは、好き嫌いの話じゃないのかもしれない。それはぬぐえない。
ステージに立ち、曲をやる前のMCは人よりも多く喋っていると思う。
たわいもない話をしたい。いつか本当に、何を喋ってたかは忘れたけど面白いMCだったとそう心に残るような話をしたいと思う。曲じゃねえのかよってね。
福山雅治のラジオは好きだけど、曲はそんなに好きじゃない。だけど応援はしている。ラジオが好きだから。
ラジアンリミテットはまだ続いているだろうか。
校長と教頭は代替わりしたのだろうか。
中学のときに、カセットテープにラジアンリミテットを録音して学校に持っていたことがある。今思えば恥ずかしい。同級生たちの記憶から消えてるといいけど。あれ、ちょっとまって。消えていてほしい記憶いっぱいあるんだけど。
少しえっちな内容が思春期のはーとをわしづかみにしていた。仕方ないよね。
社会人になってネットラジオをやり始めたこともあった。楽しかった。何かが変わると思ってた。何かが変わる前に別のことで心がすり減り、力尽きた。
地域のFM局に友人のバンドがパーソナリティをしたときなんか、とても嬉しかった。ちなみに彼はすごく上手だった。
まったくラジオを聞かなくなった今でもどこかでラジオが流れていると聴き入ってしまう。
建設現場の軽トラから流れるラジオ、窓を開けたまま走る観光客の車から流れるラジオ、近くの会社から流れるラジオ。
これといって今の番組を知っているわけではないが、今もラジオが好きだ。
ニュースを伝えるラジオよりもたわいもない話をするラジオが好きだ。
同じように君とだってたわいもない話をしたい。
何を話したかは忘れても楽しかった気持ちだけ残るような話を。
今度、友達に会ったら教えてあげようと思う。