太陽と月と花火と

不確かな記憶の中に生きている

音楽のはなし

音楽が好きだ。

 

かといって、NO MUSIC NO LIFE.というほど好きかと言われると困ってしまう。

というのは1日を振り返ってみるとほとんど音楽を聴かない。

朝目が覚めて曲をかけるとか、寝る前に曲をかけるとかがない。

通勤中に聴いていることがあってもNO MUSIC NO LIFE.というほどではない。

 

これは少し悩んでいた。音楽を演奏する周りの人たちの中には、NO MUSIC NO LIFE.の人がいるであろうことはひしひしと感じていていたから。

最近、人にその胸の内をさらけ出すことで気づいてきたことがある。

 

音楽(を演奏している人)が好きだ。

 

結局のところ、言葉にメロディをのせて歌うという姿が単純にかっこいいし、憧れるし、見ていたい。

そして、その言葉とメロディと姿から垣間見える感情がたまらなく好きなんだってことに気付いた。

もちろん単純に心地いい曲は聴いていたいし、教えてもらえれば聴くことはある。

悪いけれど、セミが鳴いて風が吹き抜け、それこそ風鈴が鳴ったり道行く人たちの近づいたり遠ざかったりする話し声には、感情の見えない曲というのはそれらを遮るだけの音になってしまう。

もちろん場所や聴く人の気分でも同じ音でも曲は違う聞こえ方をするのだと思う。

そういう意味でも家で音楽を聴くよりもライブハウスで聴く音楽がとても好きなのだと思う。

 

だから、そういう意味でも音楽を演奏している人が好きなのだと思う。

 

 

いろいろな出来事とタイミングの積み重なりを材料にした絆は、これこそが奇跡じゃないかと思った。そんなイベントに立ち会った。

息をすることはすごく難しいときだってあるから、その一瞬でも大きく息ができる場所になったことはそれこそ奇跡と呼ぶんじゃあないかと。

 

インターネットがあって良かったと思えることの一つだった。

 

みんながそれぞれの生活を過ごして、その生活の中に時おりそれぞれ顔を出してってそれだけで嬉しくなる。

 

 

NO MUSIC NO LIFE.になぞると、NO MUSIC PLAYER NO LIFE.ということになるんだろうと思う。

間接的にはNO MUSIC NO LIFE.だね。

 

 

今度、友達に会ったら、曲を聴く頻度や距離感をNO MUSIC NO LIFE.のイメージとは遠いけど、音楽ないと生きるのが難しいという意味ではNO MUSIC NO LIFE.だよと教えてあげようと思う。

 

屁理屈臭い人間だってのは自分で気づいてるよ。